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日々是勉学


by rotarotajp
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クレモナの勝利

いよいよ資料集めもクレモナに辿り着いたデスよ。オイゲン公子とヴィットリオ公爵の、いわば中盤の山場的場面ですね。スペイン継承戦争中の出来事で、ヴィットリオ公爵は表立っては登場しませんが、彼はこの会戦を境に帝国側にまた寝返ることになります。さて、オイゲン公子の最も輝かしい勝利の一つといわれている割りに、いつものように収集出来た資料は少なめです。これまでのクレモナの勝利_d0052110_164577.jpg情報をまとめると以下のとおり。
1701年、キアリでフランスのイタリア派遣軍司令官、ヴィルロワ公は痛打を受けます。この辺、ルイ14世の寵臣であったヴィルロワ公を無能とののしる書物が多いですが、どうかと思います。すでにフランス式の戦争法が各国に行き渡っていて、当初のフランス軍の優位は揺らいでいます。9年戦争で優秀な兵を大勢失ってもいる。対する帝国の兵はハンガリアで激戦を戦い抜いた猛者たちです。実際キアリの前でもカティナ元帥は敗北に次ぐ敗北です。ヴィルロワ公一人が悪いとは思えない。運悪く、ひどい戦場に派遣されてしまったお坊ちゃんのような印象が強くあります。カティナ元帥はキアリで敗北すると、戦場を離れ、とにかく保身の為にヴェルサイユまで逃げ帰ります。部下には「考え深い人」と評価され、無欲の哲人とも言われた元帥ですが、平民から元帥に成り上がった人ですから、それほど単純な人だったとは思えません。責任をヴィルロワ公に擦り付ける大芝居をうったようにも思えますが、史実はどうだったのでしょうね?1702年2月1日のクレモナ会戦の数週間前、以前はクレモナの住民であったアントニオ・コソリという兵士がオイゲン公の前に現れ、兄弟がクレモナで司祭をしていると申し出ます。この司祭がクレモナ城壁内の情報を公子に通報する。城壁内から外に続く下水道があるが、どうやらそこは警備されていない。なぜクレモナの住民がこれほど帝国軍に尽くすのかが不明ですが、前の9年戦争でミラノは帝国側に立ち、フランスと戦っている。この時も心情的に帝国寄りであったのでしょうか?とにかく、そういった情報を受けて、オイゲン公子は密かに、下水道から数日を費やして400人の兵士を城壁内に忍び込ませます。そして2月1日、夜明け前、隠れ場所から出た兵士らは事態を把握できないフランス兵を殺戮しながら城門へ殺到。外からはオイゲン公子の軍がポー河沿いの二つの城門に行進を開始します。この時、ヴィルロワ公がクレモナの中にいる。舞踏会に出席する為だといわれていますが、これは決して偶然ではないでしょう。ヴィルロワ公の行動はよほど地位が高くなければわからない事だと思います。オイゲン公子の作戦は、ヴィルロワ公に焦点を絞ったもののようにも思えるので、クレモナの司祭以上の太い情報のパイプがあったと予想されます。あるいはヴィットリオ公爵ではなかったろうか?と夢想したりもするのですが・・・・今回はここまで
by rotarotajp | 2005-07-06 16:10 | バロック