藪医者
2008年 11月 09日
藪医者という言葉は、南北朝の頃からあったそうです。
古い言葉なんですね。
藪医者の語源、これは以前にも書いたかもしれませんが、実に色々とございます。
まず裏の藪の草を引っこ抜いて煎じて飲ませるような医者という説。草を煎じて飲ませても治るはずがない。(いや、プラシーボ効果か!)毒草ならかえって害があるでしょう。
次が風にしたがって動くお医者という説、風が吹くと藪は風に従ってガサガサと動きます。風邪が大流行してお医者が足りなくなると「まあ、あの先生でも風邪ぐらいでは滅多に殺すまい」という事で繁盛する。また「少しの風(風邪)で大騒ぎ」するから、という説もあります。
「藪医者に富貴さずける風(風邪)の神」なんて川柳は江戸時代のもの。
土手医者はその藪医者の下。藪より下なのだから土手医者にかかると、これはもう命が危ない。筍(タケノコ)医者。これから大きくなって、立派な藪の一部になろうというお医者。タケノコは育つのが早いですし、いったん育って竹になってしまうとナカナカ引っこ抜くのも大変なので、まあ、碌なことはありません。
雀医者というのもあります。雀は藪に向かって飛んでいく。つまり藪へ、藪へと腕が落ちていくお医者さん。
語学的に考察すれば「やぶ」には「似て非なる」の意があるそうで、この説を採ると藪医者は似非医者ということになります。
野巫で「やぶ」。
これは読んで字のごとく祈祷師的なお医者のことでしょう。
雑草の煎薬と変わりません。
有名な明恵という真言密教のお坊さんは「光明真言」という有難い言葉を唱えながら刻んだ葉っぱを「煎じて飲めば万病に効く」と宣伝して大儲けをしたそうです。葉っぱは何でも良い。雑草でもよい。これなぞは雑草と祈祷師の合体ですから、実に始末が悪い。
日本の古い医学は中国から伝わったもので、今は「西洋医学」と対比させる意味で「漢方」といいます。西洋医学は、その汎人類的な合理性、客観性からでしょうか、近年大変に出世いたしまして、これを「世界医学」などと呼ぶのだそうです。
西洋医学の発祥は古代ギリシャ。
世界医学のお医者は「ヒポクラテスの誓い」という、なかなか深遠な誓いをたてます。(今はこれを少し改定してジュネーブ宣言の文句を使用するそうな)調べていただければわかりますが、これは藪なお医者が約束すると口が曲がってしまいそうな高邁な誓いです。
「人類への貢献に自らの人生を捧げることを厳粛に誓う」
「患者の健康を、私の第一の関心事項とする」
まあ、神様の業ですね。
だからお医者さんは「先生」と呼ばれて尊敬されます。
幸いにもギリシャの神さまは遠い東洋の小国までは目が届かないようでありまして、誓いを破ったからといって「ズガガーン」っと天の稲妻にあてられて焼け死んだお医者、なんてのはあまり聞きません。お医者が一人もいなくなってしまっては大変ですから、結構なことです。
さて、ところで藪医者といっても、本人だけの責任とは限らないのであります。医者は結果ではかられる職業ですから、結果が悪ければ、いかに善意の人でもそれまでのことですが、出来れば良医として人に尽くしたい、そういう仏性の人も多いはずなのです。
七転八倒している時の医者の暖かい手、心の篭った言葉、適切な処置、というのは、患者にとっては奇跡なのでありまして、こうした時にはどんなに藪でも藪ではない。
杉田玄白らがターヘル・アナトミアを参考に刑死人の腑分けに立ち会った際「和漢千載の諸説」はみな間違いであった、と驚愕しています。
五臓六腑説はおかしいと、ある程度の医者は皆そう思っていたでしょう。しかし、そうした見識を持つ医者が、あえて権威を投げ打ち、常識に挑戦するだけの社会的素地がなかった。また死体を扱うについては厳しい身分制度があり、情報が共有されなかった。
そうした拘束のない海外からの情報、つまり蘭学が、突然に日本の医学を粉微塵に打ち砕き、藪医者の数を劇的に減らしたのでした。
周産期医療の問題で「医者は何をやっとる」と目をいからせるむきがありますが、どうもシロウト目には、責任の大半は医者の外にあるように思われます。
お産は人生の一大事、女性にとっては最も危険な一時期にあたるわけですが、日本はこの辺の数字は大変によいそうです。関係するお医者の過重労働に支えられての好成績と聞いています。
それが限界に達したところで事件が起きた。藪の問題というよりは社会の問題でありましょう。周産期死亡率、地域によっては微増の傾向があるそうです。このまま政府の少子化対策などが万が一の間違いで功を奏し、唐突に出生率が改善などしたらエライことになるのではなかろうかと、思ったりもするのですが、どうなのでありましょうや・・・。
古い言葉なんですね。
藪医者の語源、これは以前にも書いたかもしれませんが、実に色々とございます。
まず裏の藪の草を引っこ抜いて煎じて飲ませるような医者という説。草を煎じて飲ませても治るはずがない。(いや、プラシーボ効果か!)毒草ならかえって害があるでしょう。
次が風にしたがって動くお医者という説、風が吹くと藪は風に従ってガサガサと動きます。風邪が大流行してお医者が足りなくなると「まあ、あの先生でも風邪ぐらいでは滅多に殺すまい」という事で繁盛する。また「少しの風(風邪)で大騒ぎ」するから、という説もあります。
「藪医者に富貴さずける風(風邪)の神」なんて川柳は江戸時代のもの。
土手医者はその藪医者の下。藪より下なのだから土手医者にかかると、これはもう命が危ない。筍(タケノコ)医者。これから大きくなって、立派な藪の一部になろうというお医者。タケノコは育つのが早いですし、いったん育って竹になってしまうとナカナカ引っこ抜くのも大変なので、まあ、碌なことはありません。
雀医者というのもあります。雀は藪に向かって飛んでいく。つまり藪へ、藪へと腕が落ちていくお医者さん。
語学的に考察すれば「やぶ」には「似て非なる」の意があるそうで、この説を採ると藪医者は似非医者ということになります。
野巫で「やぶ」。
これは読んで字のごとく祈祷師的なお医者のことでしょう。
雑草の煎薬と変わりません。
有名な明恵という真言密教のお坊さんは「光明真言」という有難い言葉を唱えながら刻んだ葉っぱを「煎じて飲めば万病に効く」と宣伝して大儲けをしたそうです。葉っぱは何でも良い。雑草でもよい。これなぞは雑草と祈祷師の合体ですから、実に始末が悪い。
日本の古い医学は中国から伝わったもので、今は「西洋医学」と対比させる意味で「漢方」といいます。西洋医学は、その汎人類的な合理性、客観性からでしょうか、近年大変に出世いたしまして、これを「世界医学」などと呼ぶのだそうです。
西洋医学の発祥は古代ギリシャ。
世界医学のお医者は「ヒポクラテスの誓い」という、なかなか深遠な誓いをたてます。(今はこれを少し改定してジュネーブ宣言の文句を使用するそうな)調べていただければわかりますが、これは藪なお医者が約束すると口が曲がってしまいそうな高邁な誓いです。
「人類への貢献に自らの人生を捧げることを厳粛に誓う」
「患者の健康を、私の第一の関心事項とする」
まあ、神様の業ですね。
だからお医者さんは「先生」と呼ばれて尊敬されます。
幸いにもギリシャの神さまは遠い東洋の小国までは目が届かないようでありまして、誓いを破ったからといって「ズガガーン」っと天の稲妻にあてられて焼け死んだお医者、なんてのはあまり聞きません。お医者が一人もいなくなってしまっては大変ですから、結構なことです。
さて、ところで藪医者といっても、本人だけの責任とは限らないのであります。医者は結果ではかられる職業ですから、結果が悪ければ、いかに善意の人でもそれまでのことですが、出来れば良医として人に尽くしたい、そういう仏性の人も多いはずなのです。
七転八倒している時の医者の暖かい手、心の篭った言葉、適切な処置、というのは、患者にとっては奇跡なのでありまして、こうした時にはどんなに藪でも藪ではない。
杉田玄白らがターヘル・アナトミアを参考に刑死人の腑分けに立ち会った際「和漢千載の諸説」はみな間違いであった、と驚愕しています。
五臓六腑説はおかしいと、ある程度の医者は皆そう思っていたでしょう。しかし、そうした見識を持つ医者が、あえて権威を投げ打ち、常識に挑戦するだけの社会的素地がなかった。また死体を扱うについては厳しい身分制度があり、情報が共有されなかった。
そうした拘束のない海外からの情報、つまり蘭学が、突然に日本の医学を粉微塵に打ち砕き、藪医者の数を劇的に減らしたのでした。
周産期医療の問題で「医者は何をやっとる」と目をいからせるむきがありますが、どうもシロウト目には、責任の大半は医者の外にあるように思われます。
お産は人生の一大事、女性にとっては最も危険な一時期にあたるわけですが、日本はこの辺の数字は大変によいそうです。関係するお医者の過重労働に支えられての好成績と聞いています。
それが限界に達したところで事件が起きた。藪の問題というよりは社会の問題でありましょう。周産期死亡率、地域によっては微増の傾向があるそうです。このまま政府の少子化対策などが万が一の間違いで功を奏し、唐突に出生率が改善などしたらエライことになるのではなかろうかと、思ったりもするのですが、どうなのでありましょうや・・・。
by rotarotajp
| 2008-11-09 09:40
| 時事