心臓
2009年 02月 17日
ゲロコミーという、何やら日本語にすると汚い発音の若返り法がドイツで話題になった時期があるそうです。内容は要するに(男が)若い女性を周辺に配置しておくと歳をとらないという、実に即物的というか、動物的な思想です。
イタリアで女学校の校長をして115歳まで長生きをした人物があるのだそうです。ゲロコミーはこうした例を「学校の少女らが発散する体臭」が寿命を永らえさせたのだと考えるのです。(匂いのエロティシズム~集英社新書、他)
同様のものとして旧約聖書に起源を持つシュナミティズム、他にレクタミア、バンドリングなどがあるそうですが、これ全てコトに及んでしまっては効果がない。
そういったところは道教やらの「もらさず」の思想と同じです。
子孫繁栄の道をやたらと無分別に突き進んでば、雄は役割を終え、早死にしてしまいます。カマキリをはじめ、そうした種は多くあります。
つまりヤラズブッタクリが雄にとってはよいのだと、こういう御ハナシなわけです。
秘するが花といい、また煙になった後に知れともいって、男文化の多くで人間の動物的性格の一部が秘匿されるのは、性愛が暴力に負けず劣らず雄の寿命を削るからなのかもしれません。
さて、愛といえばやはりハート、心臓です。中世ヨーロッパでは、心臓は愛と感情、敬神の棲家でした。SHE BROKE MY HEARTなんてのは、即物的にその辺を描写したもので、女性が男性の胸に白い手を突き入れて、彼の心臓を文字通り握りつぶして破壊してしまう、そうした恐ろしいイメージなのであります。
バレンタインのチョコが心臓型なのは心臓を食べてくれということですから、これもよく考えれば怖い。カニバリズムの変形ですね。まあ、食欲と性欲は源がだいたい一緒の所にあるそうですが・・・。
愛が心臓にあるなら、知性は頭脳にある。これは結構昔から認識されていたようです。太古の昔から知性と愛はベツモノ。むべなるかな、社会的地位の高いおっさんが買春で次々と捕まるのも無理なきことなのです。
日本の場合、知性の方はどう捉えられていたのか知りませんが、魂は肝にあるとされていたようです。ハラ掻っ捌いて、そこに邪悪なものが隠されていないことを見せる。それが切腹です。「みろ、なにも隠されていないぞ」と自分をさらす行為なのです。
ハラに力を込めろ!とはいいますが、胸に力を込めろ!とはいわない。心臓の地位は欧州に比べると低かったようですね。
さて、すべての生物にとって生殖欲求が行動の主動機であるとしたなら、この人間の世は実に倒錯した異常な世界といえるでしょう。愛を心臓やらチョコやら内臓やらに仮託したり、はたまた長寿のために衝動を無理に押し殺したりする。
愛を「すえた臭いを放つ固形化したロマンティシズム」といったのは誰だったかな・・・ううう・・・本を探すのが面倒なので飛ばしますが・・・・我慢に我慢を重ね、そういう状態に加工しても、愛はそれなりに美味なものなのかもしれません。
根岸鎮衛の「耳袋」(東洋文庫)に「女妖の事」という一節がありました。
何のことだと読んでみたら、八三歳の女性が五六歳の男性と夫婦になりたいと願い出たというお話しでした。よほど恋しあった間柄だったのでしょう、主人の名主新右衛門の許しがなければ駆け落ちしてでも一緒になるという。致し方なく許しを与えて一緒にしたところ、近頃まで腰の曲がった八十代の女性だったのが、立ち居振る舞いから何まで、五十代にも若返って見えたそうです。
それが妖怪じみているから「女妖」。ひどい題ですが、人間の面白い生理の一面をよく表していると思います。
とまりかけてた心臓が元気に動き出すのかもね。
イタリアで女学校の校長をして115歳まで長生きをした人物があるのだそうです。ゲロコミーはこうした例を「学校の少女らが発散する体臭」が寿命を永らえさせたのだと考えるのです。(匂いのエロティシズム~集英社新書、他)
同様のものとして旧約聖書に起源を持つシュナミティズム、他にレクタミア、バンドリングなどがあるそうですが、これ全てコトに及んでしまっては効果がない。
そういったところは道教やらの「もらさず」の思想と同じです。
子孫繁栄の道をやたらと無分別に突き進んでば、雄は役割を終え、早死にしてしまいます。カマキリをはじめ、そうした種は多くあります。
つまりヤラズブッタクリが雄にとってはよいのだと、こういう御ハナシなわけです。
秘するが花といい、また煙になった後に知れともいって、男文化の多くで人間の動物的性格の一部が秘匿されるのは、性愛が暴力に負けず劣らず雄の寿命を削るからなのかもしれません。
さて、愛といえばやはりハート、心臓です。中世ヨーロッパでは、心臓は愛と感情、敬神の棲家でした。SHE BROKE MY HEARTなんてのは、即物的にその辺を描写したもので、女性が男性の胸に白い手を突き入れて、彼の心臓を文字通り握りつぶして破壊してしまう、そうした恐ろしいイメージなのであります。
バレンタインのチョコが心臓型なのは心臓を食べてくれということですから、これもよく考えれば怖い。カニバリズムの変形ですね。まあ、食欲と性欲は源がだいたい一緒の所にあるそうですが・・・。
愛が心臓にあるなら、知性は頭脳にある。これは結構昔から認識されていたようです。太古の昔から知性と愛はベツモノ。むべなるかな、社会的地位の高いおっさんが買春で次々と捕まるのも無理なきことなのです。
日本の場合、知性の方はどう捉えられていたのか知りませんが、魂は肝にあるとされていたようです。ハラ掻っ捌いて、そこに邪悪なものが隠されていないことを見せる。それが切腹です。「みろ、なにも隠されていないぞ」と自分をさらす行為なのです。
ハラに力を込めろ!とはいいますが、胸に力を込めろ!とはいわない。心臓の地位は欧州に比べると低かったようですね。
さて、すべての生物にとって生殖欲求が行動の主動機であるとしたなら、この人間の世は実に倒錯した異常な世界といえるでしょう。愛を心臓やらチョコやら内臓やらに仮託したり、はたまた長寿のために衝動を無理に押し殺したりする。
愛を「すえた臭いを放つ固形化したロマンティシズム」といったのは誰だったかな・・・ううう・・・本を探すのが面倒なので飛ばしますが・・・・我慢に我慢を重ね、そういう状態に加工しても、愛はそれなりに美味なものなのかもしれません。
根岸鎮衛の「耳袋」(東洋文庫)に「女妖の事」という一節がありました。
何のことだと読んでみたら、八三歳の女性が五六歳の男性と夫婦になりたいと願い出たというお話しでした。よほど恋しあった間柄だったのでしょう、主人の名主新右衛門の許しがなければ駆け落ちしてでも一緒になるという。致し方なく許しを与えて一緒にしたところ、近頃まで腰の曲がった八十代の女性だったのが、立ち居振る舞いから何まで、五十代にも若返って見えたそうです。
それが妖怪じみているから「女妖」。ひどい題ですが、人間の面白い生理の一面をよく表していると思います。
とまりかけてた心臓が元気に動き出すのかもね。
by rotarotajp
| 2009-02-17 20:38
| バロック