冴え
2009年 05月 12日
秦の政が戦国諸王を征して始皇帝を名乗ったのは三八歳の時だそうである。
それまで皇帝という言葉は世になかった。政が臣下に諮り、自ら定めたといわれている。
諸王を屈服させと簡単にいうが、これは大事業だ。今なら世界の統一に等しいような事を、秦王は不惑前に成し遂げた。なるほど、生まれついて秦という大国の貴種であったことが政の利点としてあったかもしれない。しかし、これを現代に置き換えて、例えば少年時代にアメリカの大統領になったとして、世界を統一できる人物が果たして出るかというと、やや疑わしい。
偉人というのは例外なく若い。
それも驚くほど若い。
以前にも触れたが、太陽王はティーン・エイジャーの頃、最も強く輝いた。勇壮な建築のほとんどは、彼の青年時代に計画されたものである。若気の至りで起こした、意味のない戦争が最も人民の心を捉えた。壮年となり、老年期に入ると王の魅力は急激に失われ、少年時、あるいは青年時にあれほど人に愛された王が亡くなった時には、広く歓呼の声が満ちたといわれる。
先年、NHKで新撰組がとりあげられた。登場人物が若すぎると苦言を呈する向きがあったそうだ。
実際にはもっともっと若く見えた人がほとんどであったろう。
あの頃の日本人は一般に背が低く、童顔であったという。今の人に比べれば、中学生のような背丈と表情であったのではないだろうか。おそらく精神年齢も、学問における訓練も同様である。
老成がことを為す、ないし、学習によって得た知識が人を助ける、というのは迷信である。実際は逆の場合が多いようだ。若く、何も識らず、ただ持ち前の、野生の冴えを持つ人物が歴史を変えてきた。(何も識らず、というのは積極的な無知が、という意味ではない)
勝海舟は氷川清話の中でこれを牛刀と小鋏に例えている。一読すると別のことを言っているようだが、結局はそういうことだ。
老いて事を成した人の場合は、若い頃ならもっと成功したが、なんらかの制約があってそれが果たせなかったと考える方が自然であろう。思うに、自分を縛るその制約の中に奔騰する激しい若さを温存したのだ。
人の能力は戦時に最も顕著に現れるという。
「冴え」が、つまり雑余を排した実力が、モノをいうからだろう。
曹操は若い頃「治世の能臣、乱世の奸雄」と評されて(月旦)ニンマリと微笑んだそうだ。
乱世になると化け物になるがごとき語感に、普通の人ならカチンときてもおかしくないが「冴え」を持つ人物であった曹操は、この的を得たお世辞に気をよくした。月旦で知られる許氏はお世辞の名人であったのだろうと思う。それも相手をキチンと判断してお世辞を言った。
ゲーテが若きウェルテムの悩みを書き、ファウスト初期の構想をあたためたのは20代の頃だ。この人は以後も色々と書き散らしているが、最も世に知られているのは上記の二篇であると思う。(ファウストの完成?と出版はだいぶ遅くなる)
最近、立川団春著の「赤めだか」を読了した。
「冴え」がないために師匠に嫌われ、いらぬ苦労を重ねて、ついに自分を「赤めだか」と評する諦念の書と読んだが、ややヒネた内容なので御本人が何を思って書いたかは不明だ。「冴え」は「才能」や、その「氏素性」と同義語であるから、後天的な努力ではなかなか補えない。そのことだけは黒々と太筆で明記してある。その嫉妬にもだえる半生記だ。
もともとない才能は努力で補えないどころか、それを求めて葛藤した末の挫折が、本人の性格に深刻な屈託を与えるようである。
昔から言い尽くされてきたように、名将は生まれついて名将である。悔しいが銘木は双葉より芳しだ。覇者は覇者の家に生まれなくてはならない。「冴え」は誰に教えられるモノでもない。
教えられて名将になれるなら、偉人になれるなら、この世は名将偉人で溢れている。
始皇帝をとりあげた一書を読了して、そう思った。
なんとも味気ないが、当方に始皇帝になる才はない。
まあ、悲観するにはあたらないだろう。きっと天下統一などという大業ではなく、何か他の方面に「冴え」があるだろうから。
仮にまったく「冴え」とは無縁であったとしても、歴史はそうした人物の骸で満ちている。当方が最初の一人というわけではない。また「冴え」があっても、ナカナカうだつが上がらず、高い青空を見上げて溜息をついた英雄も大勢いたことだろう。
そうそう、蛇足になるが、あの項羽は二十代で身を起こして三十代には滅びていた。活躍したのは僅か数年。その数年の間に、二千年の青史に名を残す残虐を行った。殺された無数の人々の顔はかき消された。しかし項羽の横顔は今も輝いている。ホンモノの「冴え」は僅かの間の発現であっても歴史に残る。
それまで皇帝という言葉は世になかった。政が臣下に諮り、自ら定めたといわれている。
諸王を屈服させと簡単にいうが、これは大事業だ。今なら世界の統一に等しいような事を、秦王は不惑前に成し遂げた。なるほど、生まれついて秦という大国の貴種であったことが政の利点としてあったかもしれない。しかし、これを現代に置き換えて、例えば少年時代にアメリカの大統領になったとして、世界を統一できる人物が果たして出るかというと、やや疑わしい。
偉人というのは例外なく若い。
それも驚くほど若い。
以前にも触れたが、太陽王はティーン・エイジャーの頃、最も強く輝いた。勇壮な建築のほとんどは、彼の青年時代に計画されたものである。若気の至りで起こした、意味のない戦争が最も人民の心を捉えた。壮年となり、老年期に入ると王の魅力は急激に失われ、少年時、あるいは青年時にあれほど人に愛された王が亡くなった時には、広く歓呼の声が満ちたといわれる。
先年、NHKで新撰組がとりあげられた。登場人物が若すぎると苦言を呈する向きがあったそうだ。
実際にはもっともっと若く見えた人がほとんどであったろう。
あの頃の日本人は一般に背が低く、童顔であったという。今の人に比べれば、中学生のような背丈と表情であったのではないだろうか。おそらく精神年齢も、学問における訓練も同様である。
老成がことを為す、ないし、学習によって得た知識が人を助ける、というのは迷信である。実際は逆の場合が多いようだ。若く、何も識らず、ただ持ち前の、野生の冴えを持つ人物が歴史を変えてきた。(何も識らず、というのは積極的な無知が、という意味ではない)
勝海舟は氷川清話の中でこれを牛刀と小鋏に例えている。一読すると別のことを言っているようだが、結局はそういうことだ。
老いて事を成した人の場合は、若い頃ならもっと成功したが、なんらかの制約があってそれが果たせなかったと考える方が自然であろう。思うに、自分を縛るその制約の中に奔騰する激しい若さを温存したのだ。
人の能力は戦時に最も顕著に現れるという。
「冴え」が、つまり雑余を排した実力が、モノをいうからだろう。
曹操は若い頃「治世の能臣、乱世の奸雄」と評されて(月旦)ニンマリと微笑んだそうだ。
乱世になると化け物になるがごとき語感に、普通の人ならカチンときてもおかしくないが「冴え」を持つ人物であった曹操は、この的を得たお世辞に気をよくした。月旦で知られる許氏はお世辞の名人であったのだろうと思う。それも相手をキチンと判断してお世辞を言った。
ゲーテが若きウェルテムの悩みを書き、ファウスト初期の構想をあたためたのは20代の頃だ。この人は以後も色々と書き散らしているが、最も世に知られているのは上記の二篇であると思う。(ファウストの完成?と出版はだいぶ遅くなる)
最近、立川団春著の「赤めだか」を読了した。
「冴え」がないために師匠に嫌われ、いらぬ苦労を重ねて、ついに自分を「赤めだか」と評する諦念の書と読んだが、ややヒネた内容なので御本人が何を思って書いたかは不明だ。「冴え」は「才能」や、その「氏素性」と同義語であるから、後天的な努力ではなかなか補えない。そのことだけは黒々と太筆で明記してある。その嫉妬にもだえる半生記だ。
もともとない才能は努力で補えないどころか、それを求めて葛藤した末の挫折が、本人の性格に深刻な屈託を与えるようである。
昔から言い尽くされてきたように、名将は生まれついて名将である。悔しいが銘木は双葉より芳しだ。覇者は覇者の家に生まれなくてはならない。「冴え」は誰に教えられるモノでもない。
教えられて名将になれるなら、偉人になれるなら、この世は名将偉人で溢れている。
始皇帝をとりあげた一書を読了して、そう思った。
なんとも味気ないが、当方に始皇帝になる才はない。
まあ、悲観するにはあたらないだろう。きっと天下統一などという大業ではなく、何か他の方面に「冴え」があるだろうから。
仮にまったく「冴え」とは無縁であったとしても、歴史はそうした人物の骸で満ちている。当方が最初の一人というわけではない。また「冴え」があっても、ナカナカうだつが上がらず、高い青空を見上げて溜息をついた英雄も大勢いたことだろう。
そうそう、蛇足になるが、あの項羽は二十代で身を起こして三十代には滅びていた。活躍したのは僅か数年。その数年の間に、二千年の青史に名を残す残虐を行った。殺された無数の人々の顔はかき消された。しかし項羽の横顔は今も輝いている。ホンモノの「冴え」は僅かの間の発現であっても歴史に残る。
by rotarotajp
| 2009-05-12 18:48
| 私事